One Life Infinity
たった一度の人生の中は、無限の可能性を秘めている
クイーンに出会ったのは確か18歳の頃。
高校卒業後、新聞配達奨学制度で進んだ音楽学校。
その住み込み先の先輩が聴かせてくれた曲。
“We are the champion”
天から降ってくる声と事前に教えてもらったように、
決して音の良くないラジカセのようなもので聴かせてもらったその歌にしびれて、
クイーンを聴くようになった。
ボヘミアンラプソディのあの曲展開には度肝を抜かれ、世の中には天才がいるもんだと同じミュージシャンを志す者としてショックを受けた。
どんどん知っていくうちにボーカルのフレディはゲイだと知り、エイズで死んだことも知った。
そして次第に聴かなくなり、というよりも、ハナレグミや大橋トリオなどの音楽にはまりクイーンを聞くことはあまりなくなってしまった。
そして昨日、映画ボヘミアンラプソディだけは映画館で見たいと、行ってきた。
苦悩、逆境、憤りの中にある生き様の部分、それが歌詞となり曲となり生き姿となる。
コンプレックスではない。
普通であることが世の中では違うということになるのだから。
僕自身、凡事徹底だのスペシャリーな平凡という言葉をよく用いるが、
フレディにとって平凡な毎日などありはしなかった。
必要としているフィアンセに愛の形が伝わらないといことは本当に辛いことだと思うのです。
ボヘミアンラプソディの歌詞にあるんです
「僕はたまに思うんだ。
僕なんか生まれて来なければ良かったってさ」
その言葉があの観客を動員する、側から見たらスターとしか言いようのないフレディから発せられる。
想像もつかないくらいの世界の中にいたんだと思う。
そしてそんな生き様を見た後のこの今までとは全く違う歌の聴こえ方。
これが感動というものなのか。
い草はい草にあらず、
生きることである。
と思っているのは、生産者さんの生き様がにじみ出ているからで、
ボヘミアンラプソディという名曲が、
フレディの生き様を通して心に響き渡って涙が出る。
いや、クイーン全ての曲が今やあの頃とは全く違って聞こえてくるんです。
一体何を語っているのだ。僕は。
つまり僕は、生き様を伝えて感動的な人生であることを畳屋を通してやりたいのだ。
それこそ命を使って、たった一度のの人生は無限の可能性を秘めているんだぜって、そして何かを抱えながらも逃げず生き抜いていく姿に魂が震えるんだ。
沢山の人がいて、見なくとも沢山のことを抱えて生きている。
僕らはそんな人生を大いに生き抜くチャンスを頂いているんだ。
宗教臭いか?
宗教そのものか?
知らんけど、生きるってすんごいぜ。
life is beautiful
この世に障害者がいるのであれば、
それはすべての人間がそうだ。
出来ること、出来ないこと、それはみんなそれぞれ違って当然。
うちの会社、月一映画を観に行くのを仕事に入れようと本気で思っている。
世界に感動を拡げていく理念を語るのには、
社員みんなで感動を語るべきだと思うから。
技術検討会と同じくらい、感動検討会は大事だよね。
どう思う?
One Life Infinity
たった一度の人生は無限の可能性を秘めている
ほっこりしようぜ
おしまい