本職は保育関係だというのにも関わらず、
古民家の蘇生を手掛ける「野見山広明」という人間がいる。
手がけた古民家蘇生の数、畳で携わらせていただいただけでも、6.7軒といったところだろうか。
その蘇生は本当に見事で、蘇生前は時に獣(アライグマ)が棲みつくほどほったらかしでボロボロ。
再生は不可能ではないか?という建物と呼んで良いのかわからないほどの家も、
本質はしっかり残し、”在り方”に芯を置き、蘇らせる
そう。再生ではなく蘇生なのだ。
今日は畳職人として、その”野見山流”蘇生のことを語らせて頂きたいと思います。
野見山流古民家蘇生が生む豊かさマインド
とにかく家の声をきく。
外見、骨組みはボロボロの家。大工さんもサジを投げるほどの状態の家に入り、
柱や建具、床などの声をきく。家が壊さないでくれと語りかけてくるという野見山氏。
そして印象的なのはよく磨く。柱など磨いていると家が喜んでいるのがわかるという。
スピリチュアルな話に聞こえるかもしれないけど、
僕は畳を掃いたり、拭くのが好きなのですが、その時も畳が喜んでいる気がしてるから、
すごくわかる。
そしてそれは素材が自然からなる、ここではあえて”本物”と呼ばせていただくが、
本物でないとその喜びの声は聞こえないから不思議だ。
本物を磨く時間は本当に豊かな時間やパワーをいただいているような気分になるもので、
野見山氏もいろんな人に声をかけて、一緒に磨いたりする時間をとっている。
”磨くワークショップ”なんて聞いたことないですよね。
畳職人から見た暮らしフルネス
本物の中で、自分と向き合いながら暮らす。
昨今マインドフルネス、禅などよく耳にするけれど、
日々の中にしっかりと自然や、自分と向き合い、感謝に立ち返る時間を取る。
あえて禅を組まずとも、本物の素材を磨いたり、愛でたりしながら丁寧に暮らしていくこと。
それが暮らしフルネスなのではないだろうか?
現代、畳は大きなミシンのような機械でほぼほぼ縫ってしまえるが、
僕が畳を好きになったきっかけは手縫いだった。
手で一針一針を縫っていると機械でやっていた時には見れなかった景色に出会う。
それは毎日車通勤している道を、時に歩いてみたらこんなお店あったんだ!!と気づく感覚に似てる。
手縫いしている時にワクワクしたり、頬を擦り寄せたくなる畳があって、僕はそれを本物だと言っている。
話を戻すと、そういったものの中で、丁寧に食べ、丁寧に休み、流れる時間を
自然の音に耳を傾けながら暮らすことこそが、自然素材の奥深さに魅了された畳職人としての暮らしフルネスで、
まさに仕合わせな時間なのだと思っています。
終わりに
野見山流蘇生とは、自然と在る暮らしの豊かを本質とした、教育であり、共育なのだと思います。
現在大量生産、大量消費、利便性など物的社会への違和感を感じながらも、
経済活動を止めるわけにはいかないと、SDGsや脱炭素ビジネスなどいう方向に行こうとしている。
がしかし、本当の原因は、”心を磨く時間の少なさ”にあるのではないでしょうか?
売上や生活費、育児といった重要で緊急なことに忙殺され、
貴重なそれ以外の時間は、スマホやメディアに心奪われる。
重要で緊急な事柄はもちろん逃げてはダメだが、それ以外の時間は
自分と話す。心を磨く。
そんな時間にできたら、
今自分にとって本当に必要なことに気づけるのかもしれません。
そんな時間が、日々の中に自然に在る状態が、
野見山流古民家蘇生からなる”暮らしフルネス”なのではないでしょうか?