表の仕入れに際する基準について書いたブログの再放送です(笑)
ぜひ佐野疊屋の仕入れスタイルがご参考になり、少しでもい草愛が伝われば幸いです、
10年前僕は福岡市内から地元田川に戻り畳屋を継ぎました。
その時は継いだというよりただ、転がりこんだ。感じ。
といのも負け、逃げ帰ったから。
何に?
自分です。
自分がすべてを決め、頑張るだけ。
今ならそう思えるけど、10年前は運命のせいにしてた。
こういう運命なんだろうな。とか
そうやって実家に戻り、畳屋をやることとなった。
実は実際やるまでには時間がかかったのだけど。ここは省略。
実は始めた当初はそんなに好きじゃなく、ただ母が重い畳持つのを見るのは忍びなく
手伝っていた。
そんな風なまま1年くらいが経過したある日。
「畳学校いってみるか?」
と先代である父に言われ、
「どっちでもいいけど行ってみる」
的なあやふやな感情で入学を決めた。
高校を出て音楽学校に行くといったあのワクワクな気持ちとは正反対でした。
失礼だけど。
そして入学し週一で通い始めたんだが、
最初のほうは算数とか実技でも上敷き的なものばかりで
あまり楽しくなかった。
その時の佐野畳屋も中国産の材料が主で、9割機械仕事という感じだったので、
正直何も面白くはなかったです。
そうこうしてるうちに二年になり時々手縫いで畳を縫うようになり
ちょっとずつ思ったところに針が上がるようになってきた。
でも佐野畳屋では相変わらず中国産の機械縫い。
時折、手で練習したりするけど何か別にワクワクもなく。
そして三年生に。
ほとんどの授業が実技のみになり、二級試験に向けたタイムを気にするようになる。
ちょっとずつスピードが上がってきたと思っていましたが、二級のタイムにはまだ遠い。
佐野畳屋でも積極的に手縫いを取り入れたり、実際の仕事では時間がないので全然でしたが。
そしてある時気付いたんです。
なんか学校のときと景色が違うなって。
まさにこんなことしている最中は針がどこにあがるかなーなんていっぱいっぱいですので
ぼけっーとしているとき
なんか違うなって。
そう家でやる場合は中国産だったんです。
学校は国産もあった。
そう中国産の場合い草に艶もないし、なんかカサカサ固い。
国産と言ってもへっぽこ生徒が作るわけですから下物ですよ。
でも艶があるんです。
いい匂いだし。
そしてどんどん畳が好きになっている自分に気づくんです。
これいいなー。
どんどんこればっかり使いたいなーって。
かといってもぺーぺーですから相変わらず家では中国産でしたし思った様にはいきません。
でもいつか国産ばっかりを縫えるように頑張るぞとは思ってました。
ところがどっこい
い草産地がどんどん縮小していくという話を聞いたんです。
「ええええーーー」
これからなのになんでよーーー
理由は当時の佐野畳屋みたいのばかりが畳屋に多かったから。
シェアとしては80%が中国産。理由安いから。
これはいかんとあてもなく八代に行きました。
わけもわからずJAに飛び込みました。
当時のい草担当の方が心意気を買ってくれて農家さんを案内してくれました。
このことは別ブログ『ボクとい草の物語』シリーズをご参照ください。
それから毎月のように八代に行き、
勉強というより、やめないでくれー
俺頑張りますからーーーー
的な感じで。
そこらへんではどんどんいいい草に出会うようになり
これ手で縫ってみたいと思っら下手なりに手で縫って。
うわーーー最高やん。
うわーー
ってなってました。
そして今では国産の中でも色んな品種の違いを知り、
手で縫っていいやつを基準に仕入れれるようになりました。
畳は毎日踏んだり寝たりするもの。
手でさわって縫ってまじかで匂いまで嗅いで、良いやつはきっといいに違いないという結論の元
みなさんに紹介というか商売というか。
話がすごく長くなりましたが、
僕が畳を好きなわけ少しでもわかっていただけたなら幸いです。
天然い草ね。
手で縫ってみていいやつ。
これ基準。
目利きというか
五感で確める的な。
すごく偉そうですがそんな感じ。
まあ今はまたそれを含めた経営というものにすごくワクワクしていますが。
あっ。
そうそう。
母が本当に重かったものは畳じゃなく自転車操業の経営だったようです。(笑)
今ならわかる(笑)
ただ僕は阿保なので楽しいですが。。
それは多分、本当に売りたいものを売れているから。
まだまだ全体的には半々くらいですが、
お客さんはもちろん生産者さん、材料やさん、自然、1代目、2代目
もう感謝感謝
ナマステナマステ
です。
ここだけの話ですが
僕は天然畳が大好きなんですよ。
ほっこりしようぜ
おしまい