出会いは小学校三年生の時。
カバン間違えて持って帰り、全く気付いてない僕に夜電話がかかってきた。事実を知らされた僕の第一声が
『宿題しとって!!』だったらしい(笑)
野球部も一緒だった。打てない、捕れない、走れないの称号を卒業文集に書いてくれた。
高校は別々だったが3年生のとき同じガソリンスタンドでバイトした。
高校を卒業後、僕は福岡市へ行き、その人は地元企業に就職した。
たまに遊びに来てくれたりしたが、お互い忙しくなって、会わなくなった。
新聞配達の任が終わり、一旦田川に戻って田川市役所に臨時職員として勤めた。
その時もちょくちょく遊び、また僕は福岡市へ行った。
その人は、務めていた会社を辞め、ある畳屋に再就職した。
そのことを聞いた僕は、畳でその人を雇うことを意識した。(結果的その人は畳屋をすぐ辞めたけど)
でも僕はロッケンローラーだったので、
人生の荒波と闘っていた。(後に闇の2年と言っている)そして闇の2年のおかげ??で音楽で食べていく夢は諦め、音楽はどこでもできるしーなんて自分に言い訳を探しつつ、畳屋の見習いになった。
給料なんて呼べるものはほとんどなく、あくせく見習いをし5万の小遣いを頂き、2万は、闇の2年の返済に。
1万は電話代に消える日々を送っていた。
挫折した自分。借金を抱えた自分。すべてを夢を追う福岡市で抱えたことが、今の情熱の源だと思っている。
次第に畳が本気で好きになっていった。
たまに”その人”とイオン行ったり、海行ったりしてたのですが、
ある日叔父に言われた言葉をきっかけに距離を置いた。
「おっさん二人で気持ち悪!!!」
笑えたけど、まさにと思った。
おっさん二人が海辺でマックを食べていたのである。
今思うと非常に気持ち悪い(笑)
畳屋といえば、僕が戻った当初より次第に売り上げが徐々に上がっていた。
そして改めて”その人”と約束したのは4年前でした。
「時期が来たらうちに来てほしい。」
それからも徐々に売り上げは上がり、四年かかってしまいましたが、昨年末
「時期が来た。ぜひうちにきておくれ!!」
散々考えてくれた結果。
答えはNOだった。
えええーーーーっと思った。
話しの流れ的にはOKのはずなのに。。。。
だけどそれも嬉しかった。
だって
今やっている仕事への責任。友達といえど、田舎の片隅の家内企業。
ウソでも来たくなるような条件ではないのだから。
真正面から考えてくれたこと、責任感が嬉しかった。
一度は諦めた。男が35歳もなってまた1から覚え直すことへの不安や、友達ゆえのマンネリ化、
無理矢理”その人”の人生がかかった大事な選択を何度も何度も言うべきではないのではないか?
だけど諦めがつかなかった。そんな時三国志で劉備が孔明を迎え入れたエピソードを思いだした。
本当に自分の会社に、志に必要な存在であれば、何回でも言えば良い。何回も何回も語ればいい。
そう思い、週に一度呼び出して、眠りこける”その人”に語った。
僕はこうしたいんだ。と、そのために力が必要だと。友達だからこそ、ちゃんとしたルールも用意したと。
だから、友達としてではなく、男としてうちにきてくれ!!っと。
こんこんと語った。
もうほぼ眠っていた”その人”に向けて語り続けた。
そして思いは通じた。
また一歩。
理想への道が進んだ。
人を雇うことの重大性は先代に大いに学んだ。
雇用とはその人の人生を抱えこむことといっても過言ではないと思う。
だけど僕は畳屋に人生をかけている。
今後その人の人生にも人生をかけて応えていきたいと思います。
今こそ理念という旗を掲げ、大いなる前進を果たすとき。
佐野疊屋 目的理念
『モノ、コト、ココロを通じ、
人間尊重、自然尊重、感動重視の三つを軸とし、
日本文化、故郷の誇りと可能性を伝導しつつ、
身体と心に優しい空間、社会作りに貢献していく。』
行動理念
一、人間尊重 一人一人の個性を尊重し、感謝し、思いを共有していく。
一、自然尊重 一つ一つの素材に感謝し、未来に誇る行動を行っていく。
一、感動重視 如何なる時もわくわく忘れることなかれ。世の為、人の為に最高の感動を目指す。
北方謙三さんの水滸伝。
稲盛和夫さんのお話。
そして現実に色んな方々に教えてもらう様々なこと。
人生はおもしろい!!!
熱く生きれ!!!
ほっこりしようぜ
おしまい