-素々然々(そそねんねん)-
モノが溢れる時代の中で、素のままであることは心細い時もあるけれど
過剰な付加価値やデザインではなく”素のまま”だからこそココロに寄り添い続けれるモノもある
僕が産地で出会ったい草のこと、ヒトのこと、素の思いを暮らしの中に思い出すブログ
それが素々然々(そそねんねん)です。
循環型社会を考える
今、僕は英彦山(ひこさん)の山の中で
このブログを書いています。
正確に言えば書きはじめた。
そして着地点を見失った。
それを証拠に最後まで読んでみてください。
その時きっと思うはずです。
この人は一体何を言ってるんだろう?
って。
SDGs
脱炭素
循環型社会
色んな表現で未来を考えることが必須な時代の中で、言葉にとらわれず素直に見つめてみる。
どういう生き方をすれば良いのか?
「自分が死ぬ時、笑って死にたい」
ただそう思い生きてきました。
悔いの残らぬように生きても、
全部を選べないから”悔いは残るが元々”
なんじゃないかと思っています。
「母なる海ならば浮き沈むのが自然」
受け入れそれでこそ人間である証拠だと楽しむ
言葉にすると簡単ですが、
僕らはすぐ杭を打ち、そして悔やむ。
その杭を打ち続けた結果の一つが”温暖化”
なんだと思う。
前置きが長くなってしまいましたが、
循環型社会とはつまり出来うる限り杭が残らない仕組み
なんじゃないだろうか?
例えば蘇生中の古民家の庭にいて、
剥がされた板や木材に目を向けると、大体どれも錆びついた釘が刺さっている。
この素材は再利用するにしろ、焼却するにしろ膨大な手作業を要する。
手作業を要するので、効率化を考え、
無理やり全て粉砕するという機械を発明する。
その機械はエネルギーを多く使うので、エネルギー化しやすい産物を使う。
すっごい極論だけど、釘を使わなけばエネルギーを使わないですんだのに。
つくる際の手間を惜しみ、
戻す際にそのツケをまわす。
便利さは麻薬で、
やめられない、止まらないカッパえびせんだ。
そんなこんなしているうちに
結局何のために生きているかわからなくなる。
「心が凝り固まってみえないものも
力を抜いて素直に見ると
いろんな顔が現れてくるでしょ
心を開いて受け止めるなら
この世のすべては美しくてもともと」
-本阿弥 光悦-
僕は自然が好きで、特に用もないのに山に行きたがる。
その時いつも思うのは、
やはりこの世は美しい。
あぁ
柚胡椒を入れたお味噌汁と
おにぎりたべたいなぁー
ほっこりしようぜ
おしまい