ボクとい草の物語⓪ 下編〜国産畳との出会いそして産地へ〜

畳屋に転がり込み見習いから始めることに。

給与は50000円。借金に関しては弁護士介入という何かしらを施してもらい

姉に肩代わりしてもらったりして返済額は月20000円。

手取りそれが50000円から引かれて毎月30000円の

手取りお給料というところからスタートしました。

やることといえば、当時メインだった叔父と母の手伝いでした。

当時の佐野畳屋は業者さんから依頼を頂いて畳を作る仕事、いわゆる下請けの仕事が多く

使用する材料は中国産ばかりでした。

基本、畳専用機械で縫うので材料に触れる機会も少なく一切気にならず、

1時間に何枚作れるかのような考え方でした。

そんな中ただただ言われたように手伝いをし、夕方終わって遊びに行く日々。

特に畳屋にやりがいも感じることもないですし、

ただ“逃げて帰ってきた”という思いだけがずっとあり自分を信じることは出来ませんでした。

そんなある日、父から畳学校の存在を教えてもらい、別に興味はないけど、

行ってみるだけ行ってみるかと入学させてもらいました。

畳学校は畳二級技能士試験に向けて手縫いを学ぶところ、材料は国産品でした。

手縫いは難しいのですが、練習を重ねるとその分思ったように縫えるようになっていく行程に楽しさを覚え、次第に仕事が終わってからちょっとだけ手縫いしてみるなど、やるようになりました。

ある日のこと、手縫いの練習中にある違和感を感じました。

いつものように仕事を終えて手縫いをやっているとなんだか学校のとは雰囲気が違うなぁ。

針を刺した感じ、香り、肌触りなど

そう、畳屋でやるときの畳表の素材は中国産、学校のは国産だったんです。

機械縫いでは畳に触ったり、見たりする時間も少なく、いかに効率よく作れるかしか考えていませんから気づきませんでしたが、手縫いをやるとわかるんです、ぱっと見はそんなに変わらなくても、ずっと縫っていたらわかる。

例えば、車で行っている時は気づかなかったけど、ふと歩いてみると、

あれ?こんなお店あったんだ。

となることあるでしょう?

えっ。ないの?

うっそーーーん!!

そう。話を畳に戻すと

国産品にはどこか包み込んでくれるような優しさがあったんです。

これだ!

これが畳なんだ!!

めっちゃいいやん!

国産品っていいんだなー!

うちでも国産品ばかり縫えたらいいのになー!

なんて考えてたある日、中国産の普及により国産品はものすごい勢いで

衰退しているという情報が耳に入りました。

平成元年では7000軒くらいあった農家さんが145年前の時点で1000軒ほど、

現在(令和3年時点)では350軒程にまで減っています。

なくしちゃいかん。

い草はボクにとっても日本にとっても絶対なくしちゃいかんぜよ(何故か坂本龍馬)

当時はただの直感でしたが、心の底からそう思いました。

そして、

とりあえず産地に行こう。

行って農家さんに直接会って話したい。

なにを話すかまとまってはないけど、僕はい草が好きだ!

ってこと伝えたら、

「そうか。じゃあ頑張るか」

となるかもしれない。(単純ですいません)

そんな簡単な問題じゃないんだろうけど、

なにもしないよりずっとマシだ。

そしてボクは一人い草の生産シェア95%以上熊本県は八代に行く決意をしました

そこから長い長い人生をかけた

「ボクとい草の物語」が始まりました。

ボクとい草の物語①に続く

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